2023.12.15
haru nomuraと人 素材をめぐる「柿渋」【後編:柿渋製造元「岩本亀太郎本店」を訪ねて】
haru nomuraの周辺の人たちにスポットを当てたインタビュー形式のコラム「haru nomuraと人」。今回は番外編として、今年1年のブランドテーマでもあった「柿渋」の魅力に迫ります。後編は、柿渋を製造している「株式会社岩本亀太郎本店」さんにお話をお伺いしました。
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和束町は京都府の南部に位置し、「茶源郷」と呼ばれるほど見渡す限り茶畑が広がっています。森林に囲まれた盆地に和束川が流れ、昼夜の寒暖差が朝霧を生むため、美味しい茶葉が育つそう。古くから、高品質な茶葉の産地として有名な地域です。
またこの地域は、今では数少ない柿渋の生産地としても知られています。茶畑と柿渋の関係は諸説ありますが、柿の木影で良い茶葉ができるため、柿の木が茶葉の霜除けになるため、柿の木のタンニンで茶葉の虫の害を防ぐため、柿の根が深いので茶畑の土壌の安定に役立つためなどと言われています。正確な答えは分かりませんが、茶畑の中に渋柿の木が点在する光景は、全国各地で見られます。
そんな和束町の入り口に、haru nomuraの柿渋を作ってくださっている「株式会社岩本亀太郎本店」はあります。歴史は古く、創業は1890年。現在、地域に残る柿渋製造元は3軒ありますが、そのうちの1軒です。今回は、4代目の岩本將稔さんと5代目の岩本章嗣さんに、柿渋についてインタビューしました。
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野村:岩本亀太郎本店さんは、創業が1890年とお伺いしています。お二人は何代目になられるのですか?
岩本將:代で言うと、4代目と5代目になります。けれど大体、柿渋を製造しているところはみんな古くからの歴史があります。この辺りに、3件ありますが、当社の創業は一番後だと思います。
野村:柿渋作りは1800年代後半に広まったということですか?
岩本將:柿渋は平安時代には使われていたので、柿渋づくりはもっと昔からあったはずです。江戸時代には日本全国に作っているところがたくさんあって、農家の一つの生業だったと思います。柿渋製造業としての歴史はどうなの?というと1800年代後半くらい。この辺りは明治時代に創業した柿渋製造元がたくさんありました。ただ現在、残っているところより辞められたところの方が多いです。
野村:全盛期でいうと、この辺りだと何軒くらい柿渋を製造していたのですか?
岩本將:十数軒あったと思います。
野村:だいぶ減りましたね。減少の理由は何でしょうか?
岩本將:柿渋の使用量が減ってきたという理由ですね。
必ず相手方がある用途なので、相手の業界の状況が変化するとそれに連動してくる。
例えば、相手が工業的な用途であると木材や生地や紙。相手方が伝統的な工芸品であれば、三重県の鈴鹿にあるような型紙、金沢の金箔の下地、和傘やうちわ。後継者や需要の減少、化学製品への転換等でそれぞれが必要なくなってきた。
野村:型染に使う「型紙」も、現在はプラスチック製の洋型紙が主流になって、和紙に柿渋を塗った昔ながらの渋紙が使われなくなっていますね。
岩本將:渋紙の業者もね、今はほとんど残ってないです。
野村:最近は、柿渋をどんな用途で購入される方が多いですか?
岩本將:用途としては、家庭で日常的に使う柿渋とか、伝統工芸に使う柿渋は量としては少なくなってきているんです。ですが健康食品であるとか、別の用途が芽を出してきています。知らないうちに、皆さんが口の中に入れているものの中に柿タンニンが入っている時があります。
野村:そういえばこの前、柿渋ラーメンを食べました!
岩本章:麺に柿渋を練り込んでいるお店ですね。最近、面白い使い方をされているところもありまして。そういう需要が高まっています。
野村:私は柿渋染めをしていながら、柿渋の素材の成り立ちについて理解ができていない部分があって。柿渋の製造工程について教えてください。
岩本章:まず6月の下旬あたりから9月いっぱいぐらいまで、渋柿を仕入れて、そこから仕込みが始まります。柿が熟す前の、若い未熟な緑色の柿を仕入れます。
野村:渋柿はどこから仕入れるのですか?
岩本將:6月に和歌山の柿を搾って、そこから時計回りに、愛媛、島根、鳥取、長野、岐阜。9月に地元の京都の天王柿を搾って1年の仕込みが終了となります。
野村:その時期に適した地域の渋柿を集めて、順々に絞っていく感じでしょうか。
岩本章:そうです、順々に。
野村:なるほど、採集する場所や渋柿の品種で、出来上がる柿渋の色は変わりますか?
岩本章:最終的に出来上がる柿渋の色は同じですが、絞りたての状態ですと品種によって色が異なります。例えば長野県の市田柿だと、とても綺麗な黄緑色になります。
野村:(写真を指さして)絞りたての柿渋って、鮮やかな美しい色ですね。蛍光グリーンみたいな。
岩本章:そうなんです。そして搾取後、タンクに貯蔵をして、発酵、火入れ、熟成、濾過をします。
野村:貯蔵はどのくらいの時間がかかりますか。
岩本章:だいたい1年くらいですかね。そのあたりで臭いが出てきます。搾りたては、少しフルーティーな果実っぽい香りがします。
岩本將:未熟果実でも糖分があるんですよ。その糖分を資化する微生物がいますので、発酵していきます。糖分は減って、臭いの成分が増えてくる。
野村:発酵の過程で、ポコポコと泡が出たりしますか?
岩本將:出ます。それも渋柿の品種によって違います。6月の渋柿は未熟で糖分が少ないですが9月になってくると熟成が進み発酵は活発になります。
やはり果実だから人や鳥や動物に食べてもらいたいので、糖分が増えて甘い状態になっていく。子孫も残さなくてはいけないから種も出てくる。
※6月に採集する渋柿には種子がないそう。9月に進むにつれ種子が出てくる。
野村:発酵臭の話でいうと、無臭の柿渋は本当に助かっています。臭いのある柿渋を使っていたこともあるのですが、独立して工房を持ったら住宅街で。無臭の柿渋はどのようにして作るのですか?
岩本將:柿渋は、柿の実を搾汁したものです。柿の実を搾汁して発酵させます。そうすると、必ず発酵臭が出てくる。どの種類の渋柿を使っても、そういう臭いになるのですよ。お客さんから「なんとかならんの?染めた生地を他の生地と重ねていくと、他の生地まで移るやないか」と。柿渋の欠点は、発酵臭でした。だから、いかに柿のタンニンと、臭気を分けるかを研究しました。私たちは化学的な処理をするのではなく、物理的に濾過をして、柿渋を大きく2つに分けることに成功しました。化学的に、中和したりアルカリ処理してしまうと化学染料とかあまり変わらないじゃないですか。そういう化学的なことを一切せずに、天然物を天然のまま使うことができる。その原理を発見したというのが、我々の一つの武器です。
野村:天然のままの無臭柿渋、そこが岩本亀太郎本店さんの素晴らしいところですよね。使う場所を選ばないので、多くの人の創作の幅が広がります。
岩本將:住宅地やご自宅の中で使っていただけるというのはありがたいですね。作り甲斐があるというか。
野村:柿渋染めの布の硬さというのは、柿渋の補強効果によるものですよね。
岩本將:あれは柿渋の性質ですね。他の植物タンニンでやると、あんなにゴワゴワならないです。
野村:私としては柿渋の硬い質感が、使い込むと柔らかく変化していくところが柿渋の魅力だと感じています。最近では20代〜30代の若い世代のお客様が、柿渋染めを気に入って購入してくれるんですよ。
岩本將:硬くて扱いにくいっていうか「硬いからええんやっ」ていうか。昔から、柿渋の硬さのおかげで薄い和紙でも丈夫になって、型紙に使うことができた。それがその結果、防水・防腐の効果になった。硬さは、柿渋の一つの武器ですよね。
野村:理にかなっていますね。
岩本將:昔から「使いこなしてきた」というか。日本人の知恵というか、工夫ですね。若い方が魅力を感じるというのは、そういう遺伝子のせいかな。
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(インタビュー/文:野村春花)